1 :砂漠のマスカレード ★ 2019/11/05(火) 06:26:30.72 ID:SPRwvzRO9
スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第9回
GKの「破格のサッカースター」といえば、80年代後半から90年代に大活躍した、コロンビアのGKイギータだ。常識を覆した数々のプレーの裏には、何があったのだろうか。
黄金世代の天才、ルイ・コスタ。ポルトガルの太陽の周囲はいつも晴れ
◆ ◆ ◆
<スコーピオン>
1995年9月6日、ウェンブリースタジアムで「スコーピオン」が披露された。
イングランド対コロンビアのフレンドリーマッチ、ジェイミー・レドナップのループシュートに対して、GKレネ・イギータはキャッチするかわりに足で蹴り返した。
少し前方へ飛び上がりながら、体を反らしてカカトで蹴った。空中でイギータの両腕は飛行機の翼のように左右に開かれ、サソリの尾のように持ち上げられた両足のカカトで見事にボールをヒットしていた。
「ウチには手でセーブできるGKがいるから、イギータは要らないよ」
イングランドのテリー・ベナブルズ監督の反応は素っ気ないが、観客はもちろん大喜びである。イギータは何度かほかの試合でもスコーピオンをやっているらしい。こんな方法でシュートを防ぐことに意味はない。
手でキャッチすれば済む話だ。でも、それでは面白くない。それではイギータらしくない。
母子家庭だったうえに母親を早くに亡くしたイギータの幼少期は、生き抜くためのサバイバルだったという。さまざまな仕事をして糊口をしのいだ。
ミジョナリオスでデビューすると、86年にすぐにアトレティコ・ナシオナルに引き抜かれている。
翌87年、コロンビア代表監督のフランシスコ・マツラナが兼任でナシオナルの監督に就任する。2年後の89年、ナシオナルはリベルタドーレス杯を制して南米クラブナンバーワンとなった。コロンビア初の快挙だ。
さらにコロンビア代表は南米予選を突破して、90年イタリアW杯への出場権を得る。コロンビアにとって、1989年の前と後ですべてが変わっている。
<未来のGK>
マツラナ監督下のナシオナルに人々は驚かされ、イギータのプレーには腰を抜かしそうになった。FWからDFまでが20メートルのコンパクトな陣形、完全なゾーンディフェンス、そして攻撃するGK……。
2 :砂漠のマスカレード ★ 2019/11/05(火) 06:27:24.40 ID:SPRwvzRO9
イギータはペナルティーエリアを飛び出して、相手のロングボールやスルーパスをカットすると、そのままドリブルで1人、2人とかわす。
最初は受け入れられない人も多かった。マツラナ監督は、のちにこう話している。
「最初からガンジーが好きな人ばかりではないさ」
偉大な変革者の多くは初期の段階で理解されない。
しかし、イギータのプレーは時代の先を行くかどうかは別にして、受け入れない人には受け入れられない何かがあった。
南米を制した89年、国立競技場でミラン(イタリア)とインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)を争った。
当時世界の最先端の戦術を行なっていたミランと、ナシオナルの戦法は酷似していた。
唯一の違いは、ナシオナルのGKがよりモダンだったことだろう。いや、より未来的だった。
ナシオナルとミランが同時期に同じ戦法を採用していたのは、偶然の一致にすぎない。
南米でこの戦法を始めたのはウルグアイのリカルド・デレオンと言われている。
デレオンの下で選手だったルイス・クビジャが、監督の時にナシオナルに導入し、マツラナに引き継がれていた。
ただ、モデルになったのはどちらも70年代のアヤックスとオランダ代表だ。
ミランのアリゴ・サッキ監督はアヤックスがモデルだと明言している。そしてデレオンは、当時のアヤックスの監督だったリヌス・ミケルスの友人だった。
オランダ代表で、極度に高いディフェンスラインの裏を守る”スイーパーGK”の元祖であるヤン・ヨングブルートの役割を、レネ・イギータは担っていたわけだ。しかも、より進化した形で。
FKやPKも得意で、GKなのに41得点している。131ゴールと桁外れのブラジルGK、ロジェリオ・セニには及ばないが、
イギータが、セニやパラグアイのホセ・ルイス・チラベルト、メキシコのホルヘ・カンポスに与えた影響は無視できない。
マツラナ監督が狙っていたのは相手のフィールドプレーヤー10人に対して、イギータを加えた11人による数的優位だった。イギータはそれを明確に理解していたという。
また、GKがエリアを出て攻撃に加わることで、チームに緊張感を与える効果もあったようだ。超コンパクト戦法は体力より集中力がカギだとマツラナ監督は考えていた。
3 :砂漠のマスカレード ★ 2019/11/05(火) 06:28:07.18 ID:SPRwvzRO9
「我々は何を望むのか。どうプレーしたら楽しめるのか」
マツラナ監督はそれを探っていた。アルゼンチンやブラジルに何点取られないで済むかを考えていたコロンビアは、彼らのアイデンティティを探し始め、イギータはその答えを持っていた。
<コロンビア人はどうプレーすべきか>
90年イタリアW杯、コロンビアはセンセーショナルだった。
ナシオナルのメンバーにカルロス・バルデラマを加え、「どうプレーしたら楽しめるか」を体現した。
ラウンド16でカメルーンに1-2で敗れ、1点はイギータのドリブルをロジェ・ミラにかっさらわれての失点だったので、イギータには非難が集中した。
ただ、マツラナ監督はすでに0-1とリードされていた状況で、「チームを前に進めようとしていた結果」として意に介していない。
94年アメリカW杯のときは、コロンビアは優勝候補の1つに挙げられている。予選でアルゼンチンを5-0で大破していたからだ。
コロンビアはアルゼンチンの影響が強く、長年仰ぎ見るだけの相手にアウェーで大勝したことで、世論が期待しすぎていたところはあった。
しかし、初戦でルーマニアに敗れると、お得意様だったはずのアメリカにも負け、早々に敗退が決まった。アメリカ戦でオウンゴールしたDFアンドレス・エスコバルが帰国後に射殺される悲劇も起きている。
麻薬王パブロ・エスコバルのメデジン・カルテルと対抗するカリ・カルテルの抗争が激化する中、
イギータは誘拐事件に関与した疑いで7カ月も収監され(のちに冤罪として放免)、このアメリカW杯に出場できなかった。
04年にはコカインの陽性反応が出て逮捕。
翌年に一時引退したが、07年に復帰すると10年までプレーした。
その間、テレビ番組の企画で整形手術を施し、かなり若返った顔立ちに変わっている。まあ、やることなすこと普通ではない。
イギータは身長170cm台半ば。GKとしてはかなり小柄だが、反応がずば抜けて速い。
PKストップのスペシャリストであり、セービング能力もすばらしい。賛否両論あった攻撃力を抜きにしてもトップレベルのGKだったのだ。
とはいえ、他と一線を画しているのは奇異に見られていたペナルティーエリアを出てのプレーである。
4 :名無しさん@恐縮です 2019/11/05(火) 06:28:10.06 ID:pyNQQw500
バルデラマ歳取ったな
5 :砂漠のマスカレード ★ 2019/11/05(火) 06:28:52.88 ID:SPRwvzRO9
おそらく、イギータにとって常識は覆すためにあるのだろう。
「我々はコロンビア人が生きているようにプレーすべきだ」
マツラナはそう言っている。イギータのプレーは混乱の中で活路を見出すものだった。GKはボックス内にとどまるものという常識をあざ笑うように自由を満喫した。
アルゼンチンとブラジルに抱いていたコンプレックスを吹き飛ばした。何を望み、どうしたら楽しめるか――それを見せていた。マツラナは「女性解放運動に似ている」とも話している。GKをペナルティーエリアから解放したと。
保守的な人々と勝利至上主義者はイギータを認めなかった。不要なパフォーマンスにしか見えなかったからだ。
しかし、「すべての人が勝つように生まれてきたわけではない」と言うマツラナにとって、どうプレーするか、いかに生きるかのほうが重要だった。
イギータは無理解も偏見も恐れず、勇敢に人生を進むロールモデルだったといえる。
まだバックパスを手で扱える時代からイギータは足でボールを扱っていたが、やがてバックパスをキャッチすることは禁止され、新しいルールは「イギータ法」と呼ばれた。
ところで、イギータが誘拐の件で逮捕されたのは、パブロ・エスコバルが誘拐した麻薬組織の大物の娘を解放するために介入し、犯行グループに身代金を渡す役割を果たして報酬を得たからだった。
事件を利用して利益を得たという罪である。
「俺はフットボーラーで、誘拐法なんて知らなかったよ」(イギータ)
イギータ法についても関係なかったのだから、誘拐法を知らないのは無理もない。
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